季節というコイン

辛抱強く待っていれば、事が自然に片づいて、信用を得るか怠慢だと責められるかのどちらかってこともありうる。少なくとも、確率は半々だ。

「秋のスローダンス」/フィリップ・リー・ウィリアムズ

 

 

もう春が来たのだろうかと考えてみたけれど、冬と言うにも春と言うにもしっくりこない時期である。暦の上では春なのでというのも少し寂しい。

 

季節の変わり目だからなんて関係なく1年中不安定な気持ちと付き合いながら今もこうしてベッドに潜り、光をつついて自分をなだめている。

 

 

自分を知るという行為が酷く体力を消耗させ気力を奪っていき、他人に押し付けることのできない負担となっていく。

 

2度とこんなことしないって決めたのに、数年後また同じことしてるのだから学習能力がないというか意外に図太いのかわからないのだけど。

 

 

 

 

昨日は太ったおじさんに人生の話をされた。決して否定はしないし押し付けがましくない口調で不思議と説得力がある。お年寄りの話を聞くのも悪くないなって思っていたけど今日も同じ話をされて困った。

 

 

きっと僕もおじさんになればその話の違いがわかるようになるのだろうと思って最高の笑顔で聞いていた。笑顔の使い道が下手なのは人生で損なことだと思う。

 

 

笑顔で終わらせるなんて狡いと言われた昔の記憶を打ち消すようにビルを出たら冷たい風を受けた。昼食の味や夕方の空を覚えてない日だったけど、少しだけ勇気を出した日でもあったから悪くはなかった。

 

悪くはなかったって言える日がなんだかんだいい終わり方である。

 

まあ今まで辛抱強く待っていたので今年は動いてみるのも吉かもしれない。

結果がどうとか成功が何かとかどうでもいいし期待なんてしていないけどね。

 

なんにせよコインを跳ねさせてみるといいらしい。確率は半々だってさ。